10月21日、衆参両院本会議の首相指名選挙で、高市早苗氏が第104代首相に選出された。明治18(1885)、初代伊藤博文首相から140年、憲政史上初の女性首相が誕生した。高市新首相には、信奉する「鉄の女」と言われた英国のサッチャー元首相を目標に、頑張ってもらいたい。前回の首相選挙では、本命と言われながらも石破茂前首相に破れたが、今回は本命と言われた小泉進次郎氏を破り、念願の首相の座を射止めた。トランプ大統領との関係も安倍元首相の遺産を引継ぎ、良好な関係を築けそうである。 高市新首相は奈良県出身、師と仰いだ安倍元首相が銃弾に倒れたのも奈良県、仏縁というか不思議な巡り合わせである。前回、高市首相が決選投票で敗れた原因に、「首相になったらすぐに靖国神社を参拝する」という一言が致命傷になったと言われている。確かに、安倍元首相も就任後すぐに靖国神社に参拝した。しかし、その後米国を訪問した折、オバマ元大統領に激しく非難され、二度と参拝することはなかった。 それでは、なぜ米国は靖国神社参拝を非難するのかと言えば、それは昭和53(1978)年に靖国神社がA級戦犯14名を、英霊として合祀したからである。米国にすれば、A級戦犯を英霊とすることは、太平洋戦争の責任を誰も取らないことを意味する。ドイツは、ヒトラーという明確な戦犯がいるが、日本はA級戦犯を英霊にして、戦争責任を有耶無耶にしたので、無責任な国とみなしたのである。後日、安倍元首相は中国や韓国が反発するのは予想できたが、米国の反発が一番きつかったと語っていた。 それでは、なぜ靖国神社が昭和53(19778)年にA級戦犯14名を合祀したのか、そこには日本人の宗教観がある。昭和20(1945)年に戦死した兵士の第33回忌は昭和52(1977)年で、これで禊ぎが終ったと考えたので、次の年に合祀に踏み切ったのだろう。確かに、第33回忌は弔い挙げ・弔い修めといい、年回法要として一区切りである。しかし、これは日本人の宗教観であって、外国人に理解させることは難しい。A級戦犯を合祀するには、第33回忌では早すぎる。せめて戦争関係者がすべて亡くなった第100回忌が終わってから、合祀すべきと考えていた。 高市新首相には、安倍元首相の教訓に学び在任中は靖国神社参拝を、控えてもらいたいと思っている。

9月18日、来月の知事選で6期を目指す村井宮城県知事は、県内に土葬墓地の整備を検討してきたが、唐突に「検討自体を撤回する」と県議会で表明した。その理由として、県内全部の市町村長に意思確認をした結果、すべて拒否されたことを挙げた。知事は、県議会や県民の土葬墓地に対する拒否反応の強さを肌で感じ、選挙の争点になるのを避けた。それには、大義名分が必要なので、墓地許認可権のある市町村長の意思確認という、形をとったのだろう。 市町村長にとって、土葬墓地問題を検討することには、大きなリスクがある。それは、昨年8月の大分県日出町(ひじまち)で行われた町長選挙で、土葬墓地容認派の3期を目指した現職町長が、反対派の新人候補にダブルスコアで惨敗した。この結果を知っていた県内の市町村長にとって、自らの選挙のことを考えれば、検討する余地はなかったと考えられる。この問題は、外国人労働者を積極的に受け入れる方針の国が乗り出さなければ、地方自治体だけで解決するには、荷が重すぎると言えるだろう。 墓地許認可の歴史は、「墓地及埋葬取締規則」1885(明治18)年に始まる。そして、戦後「墓地埋葬法」1948(昭和23)年が施行され、現在に至っている。もともと、墓地行政は国が担っていたが、2000(平成12)年に施行された「地方分権一括法」によって、国から地方自治体に移り、最終的には市町村に移された。これによって、市町村長に墓地の可否判断が任せられ、日出町のように土葬墓地問題が選挙の争点になったのである。これから、この問題が全国的に起こるのは確実で、市町村長にとって頭痛のタネになるだろう。 今、イスラム教徒の増加によって、土葬墓地が政治的社会的問題になっている。同じ土葬の「アブラハム宗教」であるキリスト教から、今までなぜ問題が起きなかったのか不思議に思っていたが、それには理由があった。キリスト教は、1963(昭和38)年に火葬を解禁していたので、世界中のキリスト教国は火葬を行っている。イスラム教も、同じように火葬の解禁ができないものか、火葬率ほぼ100%で世界一の火葬大国、日本から要望することも、必要なのではないかと思っている。
8月15日、戦後80年の終戦記念日ということもあり、8月は戦争関連の番組が数多く放映された。戦後生まれの団塊の世代にとって、戦争体験はないが敗戦後の混沌とした貧しい生活は経験した。当時、米兵にもらったチョコレートの味は、忘れることはできない。おやつは、朝の味噌汁に入ったジャガイモを食べていた子供にとって、こんなおいしいものが世の中にあるのかと、驚きでしかなかった。 小学生になり、戦争帰りの教師に戦争体験を聞き、日本が敗戦国ということを知り、この現実を理解することができた。その内に、コッペパンと脱脂粉乳の学校給食が始まったが、脱脂粉乳のまずさだけは、今でも鮮明に覚えている。後に、アメリカでは脱脂粉乳は牛の餌であることを知り、あのまずさを納得した。そして、これが敗戦の味なのかとほろ苦い思い出である。 あれから80年、戦後の貧しさそして高度経済成長を経験し、豊かになった今日の生活を考えると感無量である。主要都市への絨毯爆撃、広島・長崎への原爆投下を経験した日本、この平和な時代が末永く続くことを願っている。ウクライナやパレスチナの惨状を見るにつけ、平和のありがたさが身に染みる。それにしても、ロシアやイスラエルのやっていることは狂気の沙汰である。 戦前の日本も、今から考えると狂気の沙汰である。1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、1941年の太平洋戦争と、半世紀のうちに三つの大国と戦争したのだから、すごいというか無謀というか、当時の日本人の気持ちを理解することはなかなか難しい。これを理解するには、靖国神社の歴史を知ることが参考になる。靖国神社は、明治天皇の命により1869(明治2)年に東京招魂社として創建され、1879(明治12)年に現在の靖国神社に改称された。 靖国神社は、もともと戊辰戦争の戦死者を慰霊するために建立されたが、日清戦争・日露戦争を通して戦死者を英霊として祀るようになった。それは戦死を美化し称賛することによって、軍国主義を助長し戦争へのハードルを低くすることとなった。多くの死者を生む戦争、死者を弔う宗教は切っても切れない関係であることを忘れてはならない。