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5 日前
読了時間: 2分

10月27日、台風30号のコースを気にしながらの毎日であったが、何とか無事に佐渡団参を行うことができた。仙台を午前5時に出発し、フェリーを乗り継いで正午に到着と、7時間の旅であった。今回の団参の目的は、令和3年12月に本堂・庫裡・諸堂を全焼した、日蓮宗霊跡寺院である一谷妙照寺に寄付を届けることと、完成した本堂にお参りすることであった。焼失前の本堂は、間口13間の大きな本堂であったので、建立された300年前の佐渡の繫栄がしのばれる。それは、慶長6年(1601)に発見された佐渡金山の恩恵によるものだろうが、世界遺産に登録された遺構を見学すると理解できる。「栄枯盛衰は世の常」とはいえ、廃山となった今ではお寺にとって厳しい時代である。  妙照寺は、日蓮聖人が文永8年(1271)10月に佐渡流罪の刑に処され、越後の寺泊から荒波を渡り松ヶ崎に到着された後、一谷(いちのさわ)にお住まいになった場所に建立されたお寺である。日蓮聖人は塚原で「開目抄」、一谷で「観心本尊抄」を著述し佐渡始顕本尊を書いた由緒あるお寺である。日蓮聖人は、文永11年(1274)3月に佐渡流罪赦免状が届くまでの2年半を佐渡で過ごした。赦免状到着後、3月に佐渡を出立、4月鎌倉で平頼綱と対面し「他国侵逼難」の諌暁(いさめ、さとすこと)を行い、6月に身延山に入りご草庵で弟子・信者の養成に尽力された。  日蓮聖人61年の生涯で、在島の2年半は日蓮教学の根幹である「観心本尊抄」と「開目抄」の2大御書を書き上げた、大切な時間であった。そして、庇護者であり篤信者である阿仏房・千日尼夫妻と出会えたことである。夫妻は、日蓮聖人が身延山に隠棲された後も、佐渡からたびたび訪れ教説上の疑問を訪ねるなど、熱心な信仰は終生変わることはなかった。  今回の団参は、久しぶりの佐渡で行は順調であったが、帰りは悪天候でジェットフォイルは全便欠航で、フェリーは何とか運行されて助かった。28日午後7時に、予定通り帰仙することができ一安心であった。妙照寺参拝は、思いで深いものとなった。

9月30日現在、楽天イーグルスは56勝82敗で借金26と断トツの最下位である。今シーズンは、球場の愛称を「楽天モバイル最強パーク宮城」と変更し、「最強」の文字が入った。この愛称を聞いた時、嫌な予感がした。楽天がソフトバンクのように強ければ納得できるが、Bクラス常連の楽天が最強を入れるとは、悪い冗談としか思えなかった。強いチームは、最強などの文字は入れないし、最強と言ったとたんに運も逃げていく。今年の楽天は、勝利の女神にも見放され、勝ちゲームも中継ぎ投手が次々と打ち込まれ、散々なシーズンとなった。  石井一久GMは、これまで8年間で2度の3位が最高で、チーム編成の責任者としていかがなものか、疑問符が付く。金銭やトレードで獲得した選手で、まともに1軍で活躍した選手は、浅村選手と酒井投手そして中日に移籍した涌井投手の3人だけであった。反対に放出した選手が、移籍先で1軍で活躍している姿を見ると、なんとも複雑な気持ちになる。石井GM が 行ったトレードで一番驚いたのは、左腕の高梨投手を巨人に出した事である 。貴重な左腕投手を放出するとは、どうゆうことなのかと思っていたら、石井GMが左対左の有効性を否定する発言をしたので、驚いたことを覚えている。  大リーグ中継をを見ていても、大谷選手に対してピンチの時、相手チームは必ず左投手にスイッチしているし、他のチームも同じように左の強打者には、左投手にスイッチする場面を数多く見てきた。これが、1871年に始まった大リーグのセオリーである。楽天の試合では、中継ぎの左投手不在が勝敗に影響した場面が多々あった。今年のチーム成績は、石井GM8年間のチームズ作りの集大成で、非常に残念な結果である。吉井新監督が、負け癖のついたチームを来期どのように再建するのか、楽しみにしている。  今年の成績は、ストレスのたまる悪夢のシーズンであった。球団創設21年で7回目の最下位、この悔しさをバネに来シーズンは優勝を目指し、ファンを楽しませる試合を数多く見せて欲しいのである。 頑張れ楽天イーグルス



8月31日
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8月23日、NHK大河ドラマは信長亡き後の後継を争う「賤ケ岳の決闘」が放映された。この戦いで、柴田勝家は秀吉に敗れ自身の居城である北庄城に逃れたが、秀吉軍に包囲され城に火を放ち、妻お市と共に自害して果てた。「賤ケ岳の決闘」での注目の場面は、前田利家が勝家に天下を取るよう懇願したが、聞き入れられなかった。これに失望した利家は、勝家に味方することはなかった。利家と勝家は、越前の一向一揆鎮圧に共に戦った盟友であっただけに、勝家にとっては不本意だったろう。勝家は、信長の妹お市を娶ったのであるから、自らが織田家の守護者として、天下を取る気概を見せていればと思うと、残念である。  前田利家は、信長・秀吉に重用され加賀百万石の礎を築いた、尾張出身の戦国大名である。そして、豊臣政権を支える有力大名となり、秀吉亡き後は幼い秀頼を補佐し、五大老最年長の実力者として、難しい政権運営に尽力した。しかし、利家は「関ヶ原の戦い」(1600年)の前年に62歳で死去し、豊臣政権にとって大きな痛手となった。もし、利家が存命ならば家康は「関ヶ原の戦い」を、起こすことはできなかっただろう。利家は、生前には織田家を見限り秀吉に付き、死後は豊臣家滅亡の端緒となったのだから、興味をそそる人物である。利家の死は、家康にとって好機到来をもたらし、「関ヶ原の戦い」で勝利を納め、覇権を握り徳川幕府の扉を開いた。  江戸時代の狂歌に「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに食ふは徳川」とあるが、この三家の役割をよく表現している。「羽柴がこねし天下餅」とあるが、秀吉と秀長がこねた天下餅は、1582年の清須会議から1590年の北条征伐の9ヶ年を表している。この間、秀長は「長秀」から「秀長」に改名し、秀吉は天皇から豊臣姓を下賜され「豊臣家」を創出した。9ヶ年にわたる天下餅づくりは戦いの連続で、秀吉の秀長に対する過度な役目は、秀長の寿命を縮める結果となった。  1591年、秀長は天下一統を見届け、52年の生涯を閉じた。秀長の死は、秀吉の朝鮮出兵等の暴走を許す結果となり、豊臣家滅亡の引き金となった。秀長は、秀吉にとって掛け替えのない弟だったといえるだろう。



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