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  • ohuchi8
  • 2012年3月30日
  • 読了時間: 2分

3月5日、松島湾で日蓮宗宮城県宗務所主催の洋上一周忌法要が、観光船を借り切って執り行われた。


 久し振りに観光船から眺めた島々は、今までとはまったく違った風景に見えた。それは、景色としての島ではなく、昨年3月11日の大津波から守ってくれた、巨大な防波堤に見えてしまった。これらの島のお陰で、松島は奇跡的に大きな被害をまぬがれることができた。人間の作った防波堤は破壊されたが、自然の防波堤は大津波をしっかり受け止めてくれた。改めて、自然の偉大さを思い知らされる一日となった。

 東日本大震災は、2万人余の命を奪い、多くの家々を飲み込み、原発事故を誘発し、放射能を撒き散らし、日本に甚大な被害をもたらした。あれから1年、今『福島原発事故独立検証委員会調査・報告書』を読んでいるが、国と東電の混乱振りが書かれている。原発立地地域住民の納得を得るために作られた「安全神話」が、地域住民だけでなく、国や東電の組織内に蔓延していたことがわかる。それは、新興宗教のようであり興味深い。最大の信者は、国や東電のエリート達である。彼らは、自ら創り出した「安全神話」が金科玉条となり、原発が御神体となり、絶対不可侵の存在となった。それ故、安全向上の仕様変更さえ認めなかった。

 安全向上を言い出すことは、原発が不完全であることを意味するので、タブーとなった。このタブーこそ、事故を引き起こした最大の原因と言えるだろう。人間が作ったものは、必ず壊れることを忘れ、原発を神様に祭り上げた悲劇である。


 一周忌法要は、自然の恐ろしさと、人間の愚かさを、改めて教えてくれた。

  • ohuchi8
  • 2012年2月27日
  • 読了時間: 2分

2月21日、政府が首都直下型地震が起きれば、震度7の可能性に言及した。


 先月、東京大学が4年以内に70%の確率と発表して以来、連日のように放映された首都直下型地震の想定モデルは、1855年11月東京湾北部荒川河口域を震源とする安政江戸地震である。安政年間は、地震が多く1854年12月の安政東海地震、その32時間後の安政南海地震を合わせ、安政三大地震と呼ばれる。「天災は忘れた頃にやって来る」といわれるが、皮肉にも1年間に三つの大きな地震が、日本列島を襲った。この歴史的事実を忘れてはならない。日本列島は、世界の0.3%の国土面積であるが、マグニチュード6以上の地震発生率は、世界の20%である。これが地震大国といわれる由縁である。

 一方、地震が少ないヨーロッパは、なぜか戦争等の人災が多い。毎日流れるギリシア危機関連のニュースも、その人災の一つである。1999年、ユーロというスフィンクスのような怪物通貨を誕生させた。ドルと並ぶ世界通貨にしようという、壮大な試みである。すべり出しは順調であったが、2008年のリーマンショックが様々な問題を浮き彫りにした。ギリシア危機は、スフィンクスの謎掛けである。スフィンクスは、エジプトのピミッドに伴う人頭獅身の巨大石像で、元々はギリシア神話に出てくる怪物の名前である。通行人に「朝は四脚、昼は二脚、夜は三脚で歩く動物は何か」と謎賭けし、解けない者を殺していたが、オイディプスによって「人間である」と解答され、海に身を投げて死んでしまう神語である。巨大石像が、そんなスフィンクスに似ているところから、ギリシア人によって名付けられた。ユーロ崩壊の引金をギリシアが引くのか、それとも現代のオイディプスが現れこの難題を解くのか、ギリシア神話の世界が21世紀に蘇った。


 歴史をたどれば、天災が日本人を鍛え、人災がヨーロッパの人々を鍛えてきたことは、確かなようである。

  • ohuchi8
  • 2012年1月27日
  • 読了時間: 2分

1月19日、昨年6月に亡くなった父の生まれ故郷、福島県楢葉町の親戚を、避難先のいわき市に訪ねた。


 楢葉町は、原発事故により役場ごと120キロ離れた会津美里町に集団避難していたが、17日ようやく近くのいわき市に移転してきた。父の葬儀の時、連絡がつかずお知らせできなかったので、報告を兼ね三年ぶりの訪問になった。いわき市を訪問する途中、どこまで楢葉町に近づけるか行ってみたが、隣町の広野町にあるJビレッジまでしか近づけなかった。Jビレッジは、日本サッカーのメッカで、広大な敷地を有しているが、福島第一原発に向かう作業員の車で、一面駐車場と化していた。放射線量は0.4マイクロシーベルト程で、福島市や郡山市より低いので一安心した。

 その夜は、親戚の人達と夕食を共にしながら、現状と将来について話を聞くことができた。近々、避難指示解除準備地域に指定されるとの事で、その準備作業が本格的に始まったところであった。そんな準備作業の話を聞きながら、いつ頃町に戻れるのかを問うと、当分戻れないのではないかという答えであった。一番の問題は、除染が進み線量が低くなったとしても、はたして若い人達が町に戻るかということである。若い人達が戻らなければ、年寄りだけの限界集落になり、町の再建は難しいという厳しい現実であった。

 父のふるさとが復興するには、解決しなければならない多くの課題があり、長い年月が必要な事だけはよく理解できた。思えば、父が本国寺を作るのに半世紀の時間を要したように、これから、草野家の人達にも、父と同じような艱難辛苦の日々が待ち受けている事は確かである。


 この苦しい日々から、いつか笑顔を取り戻せる日が来るのを願うばかりである。

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