豊臣兄弟」3
8月23日、NHK大河ドラマは信長亡き後の後継を争う「賤ケ岳の決闘」が放映された。この戦いで、柴田勝家は秀吉に敗れ自身の居城である北庄城に逃れたが、秀吉軍に包囲され城に火を放ち、妻お市と共に自害して果てた。「賤ケ岳の決闘」での注目の場面は、前田利家が勝家に天下を取るよう懇願したが、聞き入れられなかった。これに失望した利家は、勝家に味方することはなかった。利家と勝家は、越前の一向一揆鎮圧に共に戦った盟友であっただけに、勝家にとっては不本意だったろう。勝家は、信長の妹お市を娶ったのであるから、自らが織田家の守護者として、天下を取る気概を見せていればと思うと、残念である。 前田利家は、信長・秀吉に重用され加賀百万石の礎を築いた、尾張出身の戦国大名である。そして、豊臣政権を支える有力大名となり、秀吉亡き後は幼い秀頼を補佐し、五大老最年長の実力者として、難しい政権運営に尽力した。しかし、利家は「関ヶ原の戦い」(1600年)の前年に62歳で死去し、豊臣政権にとって大きな痛手となった。もし、利家が存命ならば家康は「関ヶ原の戦い」を、起こすことはできなかっただろう。利家は、生前には織田家を見限り秀吉に付き、死後は豊臣家滅亡の端緒となったのだから、興味をそそる人物である。利家の死は、家康にとって好機到来をもたらし、「関ヶ原の戦い」で勝利を納め、覇権を握り徳川幕府の扉を開いた。 江戸時代の狂歌に「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに食ふは徳川」とあるが、この三家の役割をよく表現している。「羽柴がこねし天下餅」とあるが、秀吉と秀長がこねた天下餅は、1582年の清須会議から1590年の北条征伐の9ヶ年を表している。この間、秀長は「長秀」から「秀長」に改名し、秀吉は天皇から豊臣姓を下賜され「豊臣家」を創出した。9ヶ年にわたる天下餅づくりは戦いの連続で、秀吉の秀長に対する過度な役目は、秀長の寿命を縮める結果となった。 1591年、秀長は天下一統を見届け、52年の生涯を閉じた。秀長の死は、秀吉の朝鮮出兵等の暴走を許す結果となり、豊臣家滅亡の引き金となった。秀長は、秀吉にとって掛け替えのない弟だったといえるだろう。